ファウストとダナイ、それにエドウィンが連れ立って出て行った後、執務室にはメルヴィル、レイモンド、アザレアの3人が残っていた。
メルヴィルは手早く床に落ちた血液を拭う。静かな部屋に不釣り合いな赤色さえ無くなってしまえば、もういつも通りだ。
(呆気ないな)
あれだけの決死の覚悟も、反抗も。数十分後にはもうこれだ。メルヴィルはもう綺麗になってしまった床を無感情に見つめていた。
「メル〜終わった?」
背後からアザレアの声がした。
「ああ、終わったよ。ありが……」
くるりと振り向いて言おうとした言葉が途中で途切れる。拭ききったと思った血が、床に点々と残っている。どうしてだろう、と思うよりも前に、アザレアが声を上げた。
「あ!メル左も怪我してるじゃん!見せて!」
「は?」
見ると、メルヴィルの左手からぽたり、ぽたりと赤い滴が落ちている。
右手の銃槍から出た血が手袋に染みて、それが偽の出血を演出したのだ。
「いやこれは違、」
「いいから!!」
アザレアは躊躇なくその手を掴んだ。
あまりに強く掴んだせいで、じわりとした痛みがメルヴィルを襲う。メルヴィルはアザレアを見て、そして突然慌てた様子で声を荒げた。
「あ……ッ!?おい待て!!」
しかしアザレアはその程度では待たない。
あっという間に手袋を剥ぎ取り、傷の確認をしようとその腕を持ち上げた。
「………!!!」
「……?」
持ち上げたところで、ようやくアザレアは動きを止めた。じっと大きな掌を見て、ふいと目線をメルヴィルの顔に移す。
「メル……この傷なに?」
この傷、というのは勿論銃創のことではない。
彼が言ったのは、メルヴィルの左手にあった、大きな火傷跡のことだ。
次の瞬間、バシッ!と大きな音を立てて、メルヴィルがアザレアを振り払った。
「…!」
何事かとレイモンドが顔を上げる。目線の先には、呆然とした顔のアザレアがいた。
「痛…っ」
アザレアは叩かれた手を見つめ、そうしてまたメルヴィルを見る。
「あ………す、すまない、つい…驚いたんだ。手、痛めてないか?」
メルヴィルは慌てて声音を繕い、手袋を元通りに左手に嵌めた。
「この傷は…昔、うっかり灯りを素手で触ってしまってな。大人になっても治らないから恥ずかしいんだよ」
「……ふぅん」
アザレアは不満げにメルヴィルを見つめる。しかしすぐに興味を失ったように立ち上がった。
そうしてすぐにレイモンドの方へと駆けて行く。どうやら手当の件はすっかり忘れてしまったようだった。
メルヴィルは、強張る体を動かして、2人に向かって声をかける。
「…ありがとう、お前たちのおかげで早く終わったよ。2人とももう休んでこい」
にこりと作った笑顔は、わずかに不自然に見えた。
「……はい」
レイモンドは冷えた声で返事をする。目を細め、心のうちに生まれた疑念を咀嚼している。
(…考えるべきことは、なんだろう)
じとりとした眼が皆を値踏みする。中心にいるのはメルヴィルで、端に捉えるのはアザレアだ。
(…明らかに怪しい、けれど…決定打には欠けるかな。他がどのくらい信じているのかはわからないし…)
普段の優しさは鳴りを潜め、冷徹が顔を覗かせる。冷え切った心が、彼らしからぬ答えを弾き出した。
(…いや、今ならいけるか)
ぎらりと光った緑色に、獲物達は誰も気づかない。吊り上がりかける口角を必死に抑えて、彼は純朴な青年を演じ続ける。
敵を欺くならまず味方から。いや、そもそもここに味方なんていただろうか。
「はぁい」
アザレアの上滑りした声と共に、レイモンドは軽く会釈をして扉を潜る。
注意深く見つめても、扉が閉じて見えなくなるその瞬間まで、メルヴィルのにこやかな仮面は外れなかった。
+
こつり、こつりと2人分の足音が響く。
廊下を進むしばらくの時間、アザレアとレイモンドの間に会話はなかった。なんとなく居心地の悪さを感じながら、ずっとこうなのかとアザレアは1人思う。リアンが死んでから、気の休まる会話なんて誰ともしていない。そろそろ日常が恋しくなってくる頃だった。
「……アザレア」
永遠にも思えた沈黙が不意に終わる。
レイモンドの控えめな声でも、静まり返った廊下では耳を刺すほどの存在感があった。
「え、何?」
些か動揺しながらアザレアは振り向く。振り向いて少し嫌になった。レイモンドが、やっぱり暗い顔をしていたから。どうせなら楽しい話がしたいのに、そうではないのは明白だった。
「…あ、またそういう話?俺もう聞くのやなんだけど」
残念ながら素直な彼の口にフィルターはない。なのでアザレアは咄嗟に思ったことを、そっくりそのままレイモンドに伝えた。
「……」
レイモンドはすっと顔を上げる。そこでアザレアは気づいた。なんだか少し違和感がある。
もっと暗い顔をしているように見えたのに、今の彼の顔は重く沈んでいるというよりは、決意に満ちているように見えるのだ。
「俺、魔女が誰かわかった」
「は?」
至って真面目なレイモンドとは対照的に、アザレアはひどく狼狽した。
「ちょ、は?何言ってんの。魔女ってファウストでしょ?さっき殺したじゃん」
アザレアは、ファウストがメルヴィルを襲った現場を目撃した張本人だ。だからこそ、ファウストが件の魔女だという確信を、他の誰より強く得ていた。
「…それは…わからない」
「は!?わかんないって…」
「…けど、リアンを殺したのはファウストじゃない」
きっぱりとした口調で、レイモンドは断言した。アザレアはなんとなく気圧されるような気になって、穿った目でレイモンドを見る。
「なんでそんなのわかんの」
「ファウストにはアリバイがあるから」
リアンが死ぬ前、ファウストは必ず誰かと一緒にいた。リアンとレイモンドのいた資料室から、ルッカと連れ立って執務室へ向かい、そこからはずっとメルヴィルの説教を聞かされていたはず。アザレアだってその姿を目撃しているはずだった。ファウストに、リアンを殺すことはできない。
「…え、じゃあ、待ってよ。ファウストは魔女じゃなかったってこと?」
「だから、それはわからない。…でも、とにかくリアンの殺害には無関係」
「は…」
驚くほど乾いた声が喉から漏れた。
やっと終わったと思ったのに。この疑い合う地獄から解放されたと思ったのに。
視線を泳がせるアザレアを、レイモンドは静かに見つめている。
「…落ち着いて。…ここで名前を出すのは危険だから、もう少し離れたところに行こう。…そこで整理しながら話すよ」
レイモンドはそう言って踵を返す。女性嫌いの彼が、女装癖のあるアザレアと、自ら2人きりになろうとしたのは初めてだった。
「……」
アザレアは狼狽したまま後を追う。違和感に気づけないまま、ただ頭の中でぐるぐると同じ言葉が渦巻いていた。
(……俺じゃ、ない)
+
ようやく普段の静けさの戻った執務室。
メルヴィルは、その中を落ち着きなくうろうろと歩き回っている。
「はぁ、はぁ…………」
ぐしゃりと髪をかき乱す。苛立ちが抑えきれないのだ。笑顔の仮面はもう必要ない。眉間に皺を寄せ、鬼気迫る表情が表出していた。
(俺としたことが……見られるなんて…!!)
左手を痛いほど握りしめる。さっきの嘘で、アザレアは本当に納得しただろうか。
これは、その昔ファウストとアザレアの孤児院を焼き払った時についたもの。自分の不注意で残った、唯一の証拠だった。
その傷は大きな屈辱となって、今なお彼を責め立てている。だからずっと隠していたのに。
メルヴィルは大きな溜息をついて、椅子に腰を下ろした。
(…落ち着け……大丈夫だ。相手はあの馬鹿だぞ…気づくわけがない)
アザレアは記憶を無くしている。たとえ火傷跡を見たとしても、過去の火事のことなどわからないはずだ。
だから大丈夫だと、メルヴィルは必死に自分に言い聞かせる。
(俺はこんなところで終わるような男じゃない……!)
「パトリス!」
返事はない。メルヴィルは歯噛みする。
「……あのクズ、何のために熾天使だなんて名をくれてやったと思ってる……!」
吐き捨てるような言葉に答える者は、やはりいない。メルヴィルは苛立ちを抑えるために、ばきりと親指の爪を噛み切った。
すう、と大きく息を吸い、吐き出す。何度も繰り返して、徐々に呼吸を落ち着けていく。
「……大丈夫だ。俺は…メルヴィル、クロウリー…」
脳裏に"メルヴィル"の姿を思い出す。手のひらを見る。大丈夫、うまくやれるはずだ。
自分を見つめるので精一杯の彼は、背後に伸びる影に、まだ気づいていなかった。
+
ギギ、と扉の軋む音がする。
レイモンドに招かれるままに、アザレアは敷居を跨いだ。
事務室の静まり返った空気は、喧騒を一瞬忘れさせてくれる。心中がどれだけ騒がしくても、流れているのは沈黙だった。
「……わかったって、ほんと?」
アザレアは混乱を隠しもせず口に出す。レイモンドは静かにアザレアの方を振り返った。
「…本当」
「誰!?」
「……アザレアは誰だと思う?」
「何、わかんないから聞いてんだよ」
苛立ちを込めてぎろりと睨む。レイモンドは動じなかった。
彼はするりと自分の白い上着を脱いでから、またアザレアに視線を戻す。
「今残ってるのは俺、アザレア、長、エドウィンさん、ダナイの5人。この中で、1番怪しいのって誰だと思う?」
「は?…え、わかんない。エドウィン?」
「違うよ」
ばっさりと切り捨てる。いやにはっきりした語り口に、アザレアの苛立ちは募っていく。
「なんなんだよ、早く言ってよ!」
「お前だよ」
とん、と腹部に何かが当たったような気がした。
アザレアは、その感触に思わず、何も考えないままに目線を下げる。
じわり、と、服に赤色が滲むのが見えた。
「なんでこんな時にのこのこついてくるわけ?…ああ、馬鹿だからか」
遅れてやってきた激痛が、がつんと横頬を殴ったような気がした。
「い"、ッぁぐ!!?」
思わず絶叫しそうになった口を、レイモンドが乱雑に塞ぐ。呼吸が出来なくて、アザレアはじたばたと暴れた。
「うるさい。黙れ」
ずるりと刃を引き抜いて、もう一度。
ぐち、と血肉の擦れる嫌な音が鳴った。
「これが彼の分」
ずるり。もう一度。
「これが義姉の分」
ずるり。
赤色の糸を引っ張って、ナイフの刃が腹から顔を出す。銀色の刃が鈍く光って、どっぷり着いた血をぬらぬらと照らした。
「……、ぅ…」
がくん。膝に力が入らなくなって、アザレアの体がぐにゃりと体勢を崩す。口から血の泡を吹き出して、そのまま彼は地面に伏した。
「…は、ははっ」
乾いた笑いが唇から溢れる。
見下す彼の体は数度びくりと震えて、そして静かになった。
「くふ、ふ、………あは、」
外に響かないように、口を手で覆い隠して。忍ぶようにくすくすと笑い声を立てるレイモンドは、なんだか別人のようだった。
「あは、はは、これで…これで……!!」
レイモンドは恍惚とした表情を浮かべ、ふらふらとアザレアに近づく。
地に倒れるアザレアを起こして座らせ、その手に自身のナイフ…ではなく、見繕った果物ナイフを握らせる。勿論、べったりと彼の血をつけてから。
レイモンドは自分の血に汚れた服を一瞥してから、また微かに笑い声を上げる。こんな組織の人間が、いまさら返り血を気にするなんて、なんだか滑稽に思えた。
汚れひとつない上着を着直して、彼は未だ興奮でおぼつかない足取りで部屋を後にする。
人形のように座らされたアザレアの姿は、まるで設えたようによく似合っていた。
+
暗い廊下に踊り出し、レイモンドはあくまで冷静なふりをして歩く。こつりこつりと靴を鳴らして、彼は地下に赴いた。
「…あら〜〜〜ぁ?何しに来たのォ?」
階段を降りるより前、道中にその人はいた。
「……ダナイ、……」
レイモンドは、わざとつっかえるように言葉を濁す。眉を下げて、不安を携えた目でダナイを見る。
ダナイは綺麗な服を着て、何事もなかったかのような顔でそこに立っている。絞首刑なのだから執行人に汚れが付かないのは当然と言えば当然だが、それでもなんだか、随分とさっぱりした姿に見えた。
「やだ、この後に及んで魔女が心配だったとかァ?もう死にましたけど。言っとくけどあんたも疑わしかったら殺すわよ」
「……ダナイは、不安じゃないの。……こんなに、…たくさん仲間が死んで」
「ハッ、仲間ァ〜?」
ぐっと上体を逸らして、ダナイはレイモンドを見下す。
「…いや、いいんだ。なんでもない」
レイモンドはふいと視線を外すと、表情を取り繕って再度言葉を紡ぐ。
「…長がアザレアを探してるんです。…見ませんでしたか?」
「ハ?見るわけないでしょ…。アタイずっと下にいたのよォ」
「…ですよね。ありがとう。……もう少し探してみます」
レイモンドはくるりと踵を返す。ダナイは心底どうでも良さそうに目を逸らせた。
「言っとくけどアタイ探さないわよォ。チョット休ませていただきますわ」
「ええ、勿論…」
別方向に歩き出す二人。レイモンドは、心の内でほくそ笑んでいた。己の計画が、思いの外順調に運びそうだったから。
軽くなる足取りを押さえつけて、レイモンドは執務室を目指した。まだそう時間は経っていない。奴はまだあそこにいるはずだ。
重苦しい扉から覗く一筋の光を見た時、とうとう彼の口角は弓形を描いた。
そっと足音を殺す。影に潜むように、闇に紛れるように、レイモンドは扉の裏に身を隠した。
+
ざり、と靴底が床を撫でる。
苛立ちを噛み殺して、メルヴィルは机上の書類を眺めていた。堆く重なったそれは、上層部への報告書、救助要請、死亡届……とにかくこの度の事件にまつわる一切の書類だった。
どれもこれも書きかけで止まっている。救助要請に至ってはインクの染みすらついてない有様だ。
踊る文字列を見ていると、じくじくと心の奥底が澱むのがわかる。
山積みの問題、報告文。連絡を受けた上層の顔が目に浮かぶ。奴らはきっと薄ら笑いでこう言うのだ。
「ああ!また君のところか」と。
メルヴィルとて好きでこんな集団のお守りをしているわけではなかった。だから嫌だった。たかが駒のせいで自分の評価に傷がつくことが。
「…………チッ…」
殺した苛立ちがまた膨れ上がる。がしがしと頭を掻いて、大きく深呼吸をした。
精神を乱している場合ではない。むしろ喜ぶべきだ、そうだ。邪魔な子犬を1匹排せたのだ。そう、良いことじゃないか。そう考えて、微笑を浮かべる。そうして気持ちを切り替えるためにぱっと顔を上げたところで、
「あら、随分余裕ねメルヴィル。そんなに無防備でいいの?」
「_______!?」
ふいに、背後から声がした。
振り返る、前に相手が動いた。
素早くメルヴィルの左側に身を翻し、彼の左手に渾身の力でナイフを振り下ろす。
ダァン!!という大きな音。同時に、ナイフの切っ先が木製の机の表面まで達する感触を、掌越しに感じた。
「ぐ、ぅうっ……!!」
メルヴィルの唇の間から呻き声が漏れる。当たり前だ。手をナイフが貫通したのだから。
どくどくと、さっきとは比にならないほどの量の血が机を伝う。
「貴様、誰だ……!」
取り繕うこともすっかり忘れて彼は吠えた。
「誰だ?誰だですって?」
声の主は心底可笑そうに笑う。
「まさかわからないの!?こんなに一緒にいたのに!!」
メルヴィルは、確かにその声に聞き覚えがあった。しかし知っている声とはほんの少し、何か違う。違和感がある。
ここは花のない男ばかりの組織だ。だというのに今聞こえている声は、どう聞いても女の声だったのだ。
「教えてあげようか!?そのデカい体じゃ身動き取るのも大変そうだし!」
あははは!と女は愉快そうに笑う。癪に触る笑い声だと、メルヴィルはそう感じた。
左手の痛みと、突然味合わされた屈辱。追いつかない思考を動かして、メルヴィルは、記憶にある中で最も声色の近い男の名を呼んだ。
「……レイモンド、か?」
「いいえ!違う!!」
ぐるりと、それがメルヴィルの目の前に立つ。
揺れる茶髪、緑の双眸。現れたのは…やはり、レイモンドだ。
否、正確には…レイモンドそっくりの見た目をした、見知らぬ女だった。
「私はレイラ!レイモンドの…双子の姉よ!!」