短い、断末魔のような銃声だった。
時が止まったかのように静まり返る室内。反響した音がいつまでも耳鳴りのように残っている。散る血飛沫を、命を、誰もが固唾を飲んで見殺しにすることしかできなかった。鮮やかなほどに澱みのない、自殺だった。
重力に従ってルッカの体が崩れ落ちる。ガシャン!と一層大きな音を立てて、赤い飛沫で汚れた凶器が転がっていく。
ルッカは拳銃を二丁持っている。私物と、組織からの配布物。彼が汚すことを選んだのは、組織の印の入ったものだった。ルッカはずっと、自身が持ち込んだ方の拳銃を極力使わずに過ごしてきた。彼は、実の兄を葬った武器を、積極的に使いたくはなかったのだ。
+
それは遠い昔、ルッカの親友が渡してくれたものだった。
ルッカの家族は貧乏だった。けれど幸せだった。優しい家族と共に互いを助け合って生きてきた彼は、忌まわしき魔女の災から家族を守る為、この組織に自ら入った。彼の幼馴染みや親友はこれを快く応援してくれた。ルッカの一丁の拳銃はその応援の気持ちから渡されたものだ。
___しかし、今や親友たちはおろか、彼の家族たちも、奮闘するルッカを応援してはくれない。
彼らは、死んだのだ。他でもない魔女狩りの_自分たちの手によって。
ずっと疑問はあった。それは他の若衆も同じだろう。ルッカは常にその議題について頭を悩ませていた。
「魔女、って何?」
どれだけ考えたって答えは出ない。もともと考えるのが苦手な彼にとっては、この終わらぬ疑問が何よりも重荷だった。考えに考えすぎて、彼の髪は徐々に色を失ってしまった。それでも彼は考えた。魔女とはなんだろう。自分達は何をしているんだろう。何が正しいのだろう。
考えて、考えて……ついに、止めた。
彼は最期まで答えを見つけることはできなかった。けれど疑念はあった。彼なりの思いもあった。意志も、希望も、彼にはあった。
その全てを乗せて、彼は引き金を引いたのだ。
+
最期の反抗の跡は今、金属音を響かせながら、ファウストの前で止まった。
「…………え、」
「ルッカ!!??」
溢れた戸惑いの音に被せて、アザレアの金切り声が上がった。たった今気づいたかのような、明らかに遅い反応。あまりの出来事に、思考が追いつくまでにかなりの時間を要したのだ。
そしてそれはもちろん、他のメンバーも同じだった。アザレアの声を皮切りに、ざわりと動揺の声が広がっていく。
「る、…ルッカ……」
遅れてレイモンドの震える声が聞こえた。バタバタと走る音がして、皆がルッカを囲むように駆け寄っていく。
ファウストは、そんな光景をどこか他人事のように見ていた。まるで映画でも見るような気分で。周りの会話も、表情も、どこもかしこもまるで現実味がなかった。1人だけ遠くに浮かび上がったように、上の空だった。
「…どうして」
そんなことはわかっていた。限界だったのだ。
誰よりも優しい彼は、誰よりも心に負荷をかけ続けていたに違いなかった。しかし頭が追いつかないのだ。うわごとのように、どうしてと繰り返すことしかできなかった。
「貴様のせいじゃないのか?」
低い声が聞こえた。その声は、すっとファウストを現実に引き戻していく。
「貴様が、最後の引き金を引かせたのだ」
他の誰にも聞こえないであろう、じっとりとした声が、悪魔のような言葉をファウストに囁く。
「奴が死んだのはお前のせいだよ、ファウスト」
そう言って、メルヴィルはマントを翻しながら、ファウストの横を通り過ぎた。
(違う)
頭に浮かんだ言葉は声にならなかった。だって、もう彼は死んでしまったのに。誰がその意思を汲み取れようか。
それでも違うと信じようとした。ファウストは、ルッカのことを良き仲間だと信じたかったから。彼はこの組織に反抗したんだ。長に牙を剥いた自分のように、と。
「チッ……次から次へと面倒な…」
遅れて近寄ったエドウィンが頭を抱えながら愚痴をこぼす。瞳が動揺で微かに揺れていた。
「ちょっと!うるさい!暇なら手伝ってよ!」
ルッカの真横にしゃがみ込んだアザレアが、非難の声を上げた。その足の下で、じわりと、床に鮮血が広がっている。
レイモンドがルッカの上体を抱え起こして、真剣な目で見つめているのも遠目に見えた。
「アザレア、俺がやろう」
アザレアの背後から、何食わぬ顔でメルヴィルが手を差し出す。しかしアザレアは、むっと顔を顰めてしまった。
「メルはだめ!手怪我してんじゃん」
「ん?」
はたと手を止める。同時に、ずきりとした痛みを思い出した。そういえば撃たれていたのだったと。
「おい、誰か奴を見張っておけ。混乱に乗じて逃げられたら面倒だ」
混乱の最中、エドウィンがファウストを指差して言った。
「誰がそんな……!」
ファウストは声を荒げた。しかし、すぐに口を閉じる。誰1人耳を傾けようとしなかったからだ。誰も何も変わっていない。ルッカが死んだだけ。大切な仲間がまた1人減っただけだった。
「……」
じっとりと睨め付けるように、自分を監視するダナイの視線を感じる。動揺すら感じない、突き刺すような気配が痛かった。
「…この外道ども……」
吐き捨てるように言葉を溢した。
ルッカの言う通りだと思った。うんざりだったのだ。今さっきまでぐつぐつ煮えたぎっていた怒りは、驚きや悲しみと混ざり合って、どうしようもなくなってしまった。どれだけもがいても、誰も何も聞いちゃくれないなら、意味がない。それならば、自分がするべきことは足掻くことではない。
ファウストはふと目を上げる。視線を向けられたアザレアがぴくりと肩を震わせた。
幼馴染のアザレア。…メルヴィルの起こした火事の、もう1人の犠牲者であるはずの男。悲劇の何もかもを忘れた彼に、せめて何も思い出さずにいてほしい。それはファウストの、かねてからの願いだった。
途端に体の芯が冷えていく。頭がわずかに冷静さを取り戻すのを感じた。
「…メルヴィル。ひとつ…聞かせてほしい」
ファウストの声に、メルヴィルが振り返る。不思議そうに眉を寄せて。
「…なんだ、どうした?ファウスト」
周りの人間がつられるように、少しだけ目線をこちらに寄越す。
「あの人は……キャロル・ラッセルは…魔女だったの?」
メルヴィルは、ひくりと眉を動かして、すぐにこう告げた。
「ああ、勿論。だから殺した」
その言葉は、今度こそファウストを満足させるものだった。
「…………そ」
大きく息を吸って、吐き出す。ほんの少しだが、胸のつかえが取れたような気分だった。
「じゃ、もういいよ。ボクも魔女だから殺すんだろ。早くしてよ」
「は?」
急に態度の変わったファウストに、メルヴィルが瞠目する。すぐ後ろから嘲笑めいた声が上がった。
「どうした?あんなに元気だったのに、もう諦めたのか」
エドウィンだ。ファウストは彼の嫌味にも憤ることはなく、なげやりに「ああ…」と肯定する。
「ここは、居心地が悪いから」
エドウィンは、さも興味なさそうに鼻を鳴らした。そんな態度も、もうさほど気にならない。ファウストは1人きりの心の中で決意を固める。全てを1人で抱えたまま、アザレアを置いていく決意を。
「なら、お前は後で良い。先にこの死体から片付けるべきだな」
そう言ってエドウィンはまた床の上に視線を落とす。レイモンドがびくりと体を震わせて、抱きしめるようにルッカの体を抱え上げた。
「…言い方がキライ」
アザレアがじとりとした目でエドウィンを見る。エドウィンは気にも止めずに続けた。
「死体を死体と呼んで何が悪い?それとも、お前たちはいちいち殺した奴の名を覚えているのか。大した記憶力だ」
「…うるさい。もういーよ!レイモンド、足持って!」
「あ……う、うん…わかった」
「メル!どこ連れてけばいいかわかんないから案内して」
「…あ、ああ。こっちだ」
メルヴィルが急ぎ足で2人の前に回る。アザレアがルッカの上体を起こすのに合わせて、レイモンドが脚を持ち上げた。もう喋らなくなったルッカの体が重力に従ってだらりと垂れる。
(…生々しい…)
それを見るだけのファウストは、今更ながらそう思った。
扉をくぐるほんの一瞬、振り返るアザレアと目が合う。すぐに逸らされた視線は、二度と交わることはないのだろう。ファウストは閉まる扉を見送って、目を閉じた。アザレアの瞳の色を、死の間際に思い描けるように、固く瞼に焼き付けて。
+
3人がルッカの体を安置して戻ってくるまで、ファウストは一言も口をきかないつもりでいた。勿論、他の2人も。
ダナイは悠々とメルヴィルの椅子に座って、ずっとファウストを見ていた。その目はまるで猛禽類のようだ。油断も隙も見せることはできなかった。ファウストはというと、他の部屋から持ち出した別の椅子に、黙って座っている。エドウィンも同様だ。付かず離れずの距離が、部屋に流れる重く緊張した空気を可視化しているようだった。
「…本当に逃げる気配すらないとはな」
ふいに、独り言のようにエドウィンがつぶやく。
「別に…ていうか逃がす気ないでしょ?」
ファウストはチラリとダナイを見た。ダナイは相変わらず何も言わない。
「…俺はどちらでもいいぞ。どうでもいい」
代わりにエドウィンがそう答えた。
「は……なにそれ」
乾いた声でファウストが笑う。面白くない冗談だと思った。
「……」
エドウィンが何か言おうと口を開く。
それに被さるようにして、キィ…と音を立てて扉が開いた。
「…すまない、遅くなった」
メルヴィルを先頭にして、出かけて行った面子が帰ってくる。皆一様に暗い顔をしていた。
「…さぁ、いよいよお前の番らしい」
エドウィンが、吸ってしまった息を、仕方なく吐き出すように言った。
ファウストは、胸に鉛のようなものが満ちていくのを感じていた。自身に終わりが近づいていることが、確かにわかった。
「休んでいる時間はないぞ。早く決めろメルヴィル、お前がここのトップなんだから」
エドウィンがきつい口調で言い放つ。急かすように手をひらひらと振りながら。
「ああ…そうだな」
それにメルヴィルは重々しく頷くと、ファウストを見た。釣られるように、アザレアも、レイモンドも、エドウィンもダナイも視線をよこす。ようやく全員の目がファウストを向いた。
「抵抗しないのなら……手順を踏んで処刑、になるのか。拷問も必要ないわけだからな…」
淡々とエドウィンが言う。
ここではの仕事は拷問ばかり。ゆえに日頃は惨たらしい死体ばかりを積み上げている彼らだが、どうやら今回はそれは回避できるようだ。
(………全く嬉しくない)
ファウストは静かに自分の頬を撫でる。ざらりとした縫い跡の感触が指に伝わってきた。
(ただ…でも、そうか……)
キャロル…自分を治療した恩人の跡を、できるだけ壊さずに死ねるなら。それはそれで幸いなのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎった。
+
キャロル・ラッセルとは、とある女医の名だ。研究者と言っても良いかもしれない。火事で大火傷を負い、ほうほうの体で逃げてきた幼いファウストを、たまたま拾ったのが彼女だった。
丁度彼女は皮膚の移植の研究をしていた。ファウストの皮膚を継ぎ接ぎにしたのは彼女だ。深刻な火傷を剥がし、新しい皮膚を植え付けて、ファウストを命の危機から救ったのだ。
ひとつ問題があったとすれば、彼女は少しだけ_盲目だった。移植の研究をするために、犬や猫の皮を剥ぎ、人の死体にまで手を出した。そのせいで魔女狩りの目についてしまったのだ。
ファウストは、キャロルが魔女として死んだことは知っていた。だからここにいる。彼女が本当に魔女だったのか、確かめたかったから。
彼はファウスト・ラッセルと名を名乗り、魔女狩り組織に入ることを決意したのだった。
+
「魔女の処刑…正式な場なら火炙りだろう。ただ、そんな場所も余裕も俺たちには無いから、ここではできないな」
そうメルヴィルが言う。
ああ残念だな、古傷を抉ってやりたかったのに。そんな声が聞こえてくるようだ。嫌な幻聴に思わず舌打ちがこぼれる。
(ボクにしかわからない当てつけは止めろよ)
心の中で、そう呟いた。
「ここでやるならそうだな……絞首…とか」
「……」
絞首刑。首吊り。
手軽かつ最速、後始末も楽で殺傷能力も高い、最高の殺し方。殺害対象が抵抗を止めたこの状況なら、障害もない。成る程、合理的だとファウストは思った。
「あらァ、ずいぶんお優しいのねぇ〜♡」
すかさずダナイが茶化すように声を上げる。
「…不満ならお前がやるか?」
メルヴィルが横目でダナイを見ながら問うた。ダナイはニコリと目元を歪めると、待ってましたと言わんばかりに立ち上がる。
「いいわよ〜…腰抜けリーダーサンの代わりにあたいがやったげる」
軽い足取りで歩き出した彼は、ファウストの背後に並ぶように立った。じとりとした視線がファウストの首筋に突き刺さる。
「ありがとう。あとは諸々の片付けと…俺は上への報告書の書き直し、だな」
メルヴィルは、ダナイの言葉を意に介さず…そういう風を装いながら、指示を出す。
「エドウィン、必要であればダナイの補佐に。アザレアとレイモンドは休んでいいが…もし余力があるなら片付けを手伝ってくれ」
「俺やるよ」
「…俺も…」
アザレアがすぐに、レイモンドが控えめに申し出た。メルヴィルはそちらを見やり、少しだけ微笑んでみせると、短く礼を言った。
「…んじゃ、あんたの死に場所に行くとしましょうか?魔女さんや」
頭上から聞こえる声。ダナイは覆い被さるようにして、ファウストを覗き込んでいる。
「……」
ファウストは返事をせずに立ち上がった。
+
血と、息苦しいほどの絶望の余韻が至る所にこびりついた部屋。普段拷問部屋として使われる石壁の部屋だ。天井に渡された梁に、見慣れない縄がぶら下がっている。
「遅い。いい加減準備はできたか?」
入口にもたれるようにして立つエドウィンが不平を漏らした。それに、部屋中央…ちょうど縄の真横に立つダナイが、呆れたように返す。
「我慢できないお子ちゃまね〜〜〜別に来なくても良かったのよォ?」
「は?逃げないように見張ってろと言ったのはお前だろうが…」
まるで子供の言い合いだ。不毛なやり取りが交わされている。間に立つファウストの頭越しに。
普段と変わらない会話と、いつもの部屋に、似合わない異質な状況。何かの記念日の時のように、心がざわついている。
「…はぁ。必要ないなら俺は帰る」
エドウィンが苛立ち混じりに吐き捨てた。そうしてさっさと踵を返すと、足早に去っていってしまう。重々しい扉の閉まる音だけが部屋に残った。
「……結局絞首なんだ」
ファウストがぽつりと呟く。
「アラ、何?乱暴なのがお好み?」
「なわけないでしょ。……ダナイこそそういうのが好きなんだと思ってたけど」
「ン〜〜〜そうねェ」
ファウストの問いかけに、ダナイはほんの少し首を傾げて、言った。
「あんたは良いのよ。最初から傷だらけで醜いもの♡…ワタシみたいに」
「…あっそ」
歪んだ笑顔を向けられて、ファウストは目を伏せた。この組織にいる人間は、つくづく歪だ。
ずるずると椅子を引きずり、縄の真下に設置して、ダナイが言う。
「さ〜準備ができたらおいでませ〜」
「……」
ファウストは指さされた椅子を見た。散見される血痕以外はごく普通の、見慣れた椅子だ。しかし今は処刑台である。
一歩踏み出す。椅子までのたった数メートルの距離が、無限に伸びる道のように感じられた。
体感としてはゆっくり、実際には数秒の時間をかけて、ファウストは椅子にたどり着く。椅子に足をかければ、ぎしりときしんだ音が鳴った。ダナイの手が頬の横を通り、ファウストの縫い目のある首に、太く重い縄がかかる。
ああ、もう自分は死ぬのだ。言いようもない倦怠感と、絶望がファウストの身を包んでゆく。
(……キティ)
真っ黒に染まる頭に、ふいによぎった言葉があった。
それは、かつての幼馴染の名。
1番親しかった自分だけが知っている、アザレアのもう一つの名前だ。
最近は、顔を合わせてもロクに会話すらできない日もあったけれど、本当はファウストとアザレアは険悪な仲ではなかった。むしろ、孤児院の中でもいつも2人でいるような、無二の親友だったはずだ。
あの火事さえなければ。アザレアが記憶をなくしさえしなければ。そのままの2人でいられたのだろうか。
(…やめよ)
今際の際に悔いを増やしてどうする、と思い直す。ここまで来たら、思考など邪魔なだけだ。
「OK。じゃ、バイバイ♡魔女さん」
ダナイが椅子の端に足をかける。ファウストはぼんやりした視界にそれを見た。もう、現実のことなど頭にない。あるのはたくさんの後悔と、優しい思い出の走馬灯。
『____!』
記憶の中のアザレアが、ファウストのあだ名を呼ぶ。遠くの方で手を振る姿が見えた気がした。
じわりと視界が滲む。
(…もう一回くらい、呼ばれたかったな)
ガタン、
乾いた音がして、彼の命を繋いでいた椅子が倒れた。
+
「……ハ、地味」
今しがた蹴り飛ばした椅子、その上でゆらゆら揺れるブーツ。それを無感情に見つめながら、ダナイは独りごちた。